私の頭の中のフィルター

「好意」や「愛し愛され」の話が各所で起こっている。ここでの私見

 自分の好意や愛が、相手にそのまま伝わるなんてことは恐らくないといっていい。自分の行為(好意、愛)にレスポンスを返すのはいつだって他人だ。そして自分の行為は他人の中で咀嚼され形を変える。

 あらかじめ行為を伝える人との関係において相手に「自分に対する好意」が形成されていなければ、自分の行為は伝わらない。

 行為は各々の心の中にあるフィルターを通して変換される。相手に自分に対する好意フィルターがあれば、おおよそ自分の行為は好意的に解釈されるだろう。それとは逆に相手が自分に対する嫌悪、恐怖といったフィルターを持っている場合、自分の行為は相手に悪感情を抱かせる。
 よくいわれる「同じことをしてもイケメンはよくてキモメンはだめ」現象は、すでに相手が行為主体の外見的特長から、無意識に好意を抱いているために起こる現象だ。外見がすべてという気はさらさらないが、外見がいい方が好意を抱かれやすいのは確かだ。

 自分が非モテマインドを持っている場合、世のおなご様は自分に対して嫌悪フィルターしか持っていないと思っている。実際には「無関心」もありうるが、その場合は無関心フィルターによって、あらかじめ自分の存在はなかったことにされていると思っている。

 非モテは愛に見返りを求めて行為をしているから非モテになっているわけではない。相手のフィルターを通し、自分の行為がどのように相手に捕らえられるか考えて、「行為をしない」から非モテになっているのである。

 相手の気持ちなど一切考えなくてよいのであれば、誰も非モテになどならない。

(関係しているなーというところへのリンクは後ほど)