知っているからといってヤレるわけじゃないんだぜ

 つい最近ライブに行った。何かしらのライブに行くたびに、モッシュやコールやる人たちをみると感心する。(これをオタ芸に変えてもらってもかまわない)

 ライブに行くようになってしばらくは、自分も声を出したり周りと一緒に飛び跳ねたりしていた。しかしあるとき、会場の後ろの方で軽く体揺らしたり、頭振ったりしているのもすごく楽しい、動かない分疲れないと気付いた。

 しかし、これを音楽好きの友人たちに話すといつも怒られる。どうも「ライブでは盛り上がらんといかん」みたいな規範があるようだ。確かに、僕も最初はそのような規範があるような気がして騒いでいた。

 ライブに限らずいろんなところで規範というか、その時々のルールみたいなものがある。セオリーも含まれるかもしれない。例えば、バーの中では居酒屋にいるように騒がないとか、モテたければ多くのおなご様と話せとかね。非モテとか非コミュはそのルールをしらない。もしくはそれに乗っかれない人だと感じている。

 社会の中で使われているルールとかセオリーって、基本的に勝者や強者(これらの言葉を使いたくないけど)、社会的にうまくやれている人が作っていると思う。それに従ってうまくやれた人が、ルールやセオリーの価値を再生産している。そうなると、ルールに従って社会の中で生きていけるかみたいなゲームみたいだ。一般化された他者をいかに演じるか。

 「キモい」と思う境界もおそらくは、(社会的弱者からみた)「強者の価値観」だったりするんじゃないかなぁ。

 ルールを知らない場合なら、知ってから自分がどうするか選択すればよい。しかし、ルールを知った上でそれに従えないと決めた場合、自分にしか適用されない俺ルールを構築するのだが、こうなるとゲームへの復帰は困難。ゲームに復帰するには俺ルールの破壊、強者が作ったルールの受け入れの必要がある。すなわち自分を裏切らないといけない。

(余談だけど、脱オタした人がしばしば天馬さんいうところの「説教坊」になってしまうのは、自分を裏切ったことの正当性を保つにはオタクをたたき続けることしかないからかもしれない)

 すべてを受け入れてゲームに参加する。それが「大人」になることかもしれない。が、しかし……

 とルサンチ全開だねこれは。