やっぱり「負け」戦が必要なんだってばよ

前回のエントリにid:fromdusktildawnさんからTBをいただいた。筆が遅いのでいささか亀レスになっているけど、もうちょっと続けてみたい。

非モテが一心不乱の殴り合いを求めている」には、基本的に同意なんですが、補足事項がつきます。たしかに、非モテは殴り合いを求めています。しかし、ぼくに言わせれば、「彼らは殴り合い自体」を求めているわけではなく、「敵として認められることで素通りという最悪状態を脱出しているという実感」を得る手段の一つとして、「殴り合い」を求めているのだと理解しています。

そして、「相手に蹂躙されること」すらも、彼らにとっては快感になりうるので、基本的には同意です。ただ、「相手に蹂躙されること」それ自体は、あまり求めていないと思います。非モテの方々の名誉のために言っておきますが、彼らは別にマゾヒストではないと思います。ただ、相手から強烈な攻撃をたくさんくらうということは、それだけたくさん相手をしてもらっているという実感がわくわけなので、そういう間接的な意味では、蹂躙されることも快感なのだと思います。

これは、非モテは「かまってもらえていること」と「自分の価値の証明」を実感するために、殴り合うを求めるということになると思うのだが、「ああ、なんか分かるけど多分合ってるけど…違うんだ!」という複雑な気持ちになる。

「相手から強烈な攻撃をたくさんくらうということは、それだけたくさん相手をしてもらっているという実感がわくわけなので、そういう間接的な意味では、蹂躙されることも快感なのだと思います。」

ということには概ね同意できるのだけれども、やっぱり肝は「劣勢である」ことだと思っている。どういう手段によるかは知らんが、とにかく今猛烈に辛い、きつい。そういう状況でこそ満たされる自分がそこにいるのではないか。

また、「価値の証明」の話だと、僕の中で非モテは、基本的に自分の価値を全く認めていない存在だと思っている。常に自分の醜さと汚さ、そしてそれらが捨てられないことに対して強い怒りを感じている。決して自分を許せない存在それが非モテ

非モテ論争の中で「確かにあなたの価値を認めない人は多いけど、中にはあなたに価値を見い出す人はいる」とか言ってしまう方がいらっしゃるが、そんなこと言われても…。

「俺に価値がないことは誰よりも俺が知ってる。他人の言うことなど信用できるかよ!」

ということになるだけ。非モテにとって重要なのは「誰かにどのように評価、承認されること」ではなく、「誰かに評価、承認される自分をどう評価、承認すること」である。そして、非モテは「自分は醜い」という評価を自分に下している。だから、「キモイ」といわれたら「おお、そうだよ。俺はキモイよ。」とキモイという評価を受け入れて、「でも、何でお前にそんなこと言われなきゃいけねぇの」ということになるのだが、「別にキモくないじゃん」といわれると「お、おのれー。お主のその欺瞞…許せん。」このように「キモくない」という評価自体、間違ったものとして受け入れることが出来ない。

話がそれまくっているけど、非モテが許せないのは欺瞞に満ちた世界と「キモいのは分かってるけど、もう言われすぎてミニにタコができるよ!」だったりするのではないか。なので、

ああ、自分は、敵として相手をしてもらえるほど価値ある存在なのだ!と感じることで、自分の精神の底に蓄積している、「自分はだれにも相手にされないほど無価値な人間なのではないか」という不安感を、一時的にでも紛らわすことができるのだ。

というのは違うんじゃよーと感じている。