p_shirokuma先生へのいまさらなお返事

id:p_shirokuma先生から前回のエントリに対して次のようなコメントが寄せられました。かなり返事が遅くなってしまい、非常に申し訳なく存知ます。

いまさらの感が漂いつつありますが、なるべく真摯にお答えしようと思います。

>>1について、僕自身は「このまま年を重ねてもあまり自分は変わらない」と考えています。
差し出がましいようですが、一応。
万物は流転し、人の気持ちはそのなかでも一際流転するものです。yugyuさんの考えが、そうであり続ける可能性を、yugyuさんはどこまで疑っていらっしゃるのでしょうか。もっと苦しいかもしれません。もっと楽かもしれません。例えばですが、20年後のyugyuさんは「非モテ」でしょうか?だとしたらどんな境地にいるのでしょうか?そこら辺について、何かお書き頂くことは出来るでしょうか?

「自分の変化の可能性をどこまで疑っているのか」

人の考え方や気持ちは刻々と変化していくことは、まったく仰るとおりです。「カレー食いたい」と思った1分後に「ラーメン食いたい」と思ったり、その1分後に「まぁいいや両方食おう」と決めたりすることは良くあります。(良い例が浮かびませんでした)

しかしながら、枝葉の部分は良く変わっても、根っこの部分はそれほど変わることがないのではないかと考えています。とはいいつつも、あまり変化を引き起こす事象についてイメージが及ばないので、ちょっと歯切れが悪くなりますが……。

人に変化が起こるとき、フックとして環境の変化があると考えます。「よし、自分を変えよう」と思い立つにも何かしら理由があるはずです。僕には「自分の変化の可能性」がまったくないと言い切ることができませんが、いまの自分の生活に大きな変化がなければ、自分自身の変化も(おそらくではありますが)さほどないでしょう。

もっとも何かしら突発的な出来事があった場合、どう対応するのかはケースによります。できるだけ今の自分のスタイルに変化がないように立ち回りたいと思っています。

「20年後の僕」について

どうなっているんでしょうね。いまの僕は20年後娑婆の価値観が変化していなければ、「非モテ」でありたいと願っています。しかし、それにかける情熱は流したはずの涙より冷たくなってしまって*1いるかもしれません。

『BLACK LAGOON3巻』に竹中正洋という人物のセリフをご紹介します。この境地にいられれば……と思います。

昔、こんな話を聞いた。町にやって来た男の話だ。その男は街角に立ち――説法を始めたのさ。「世の中がよくなるように」そういって男は、説法をし続けた。毎日、毎日だ。最初は皆、男が言うことに耳を傾けた。共に戦おう、と言うものもいた。だが――皆はまた、興味を失っていった。連中にとっちゃ世の中がどうなろうと、知ったこっちゃなかったんだ。だが男は、やめなかった。歳を食い、誰一人聞くものがいなくとも男は説法を続けた。ある時そこを通りかかった子供が男に聞いた――「どうして誰も聞いてないのに」「説法を続けるのか」と。その男はこう答えた。「最初は皆を変えられると思っていた」「そして今は、叶わぬ夢だとも知っている」「だが俺が説法をやめないのは――」俺が、戦いをやめないのはな、あんちゃん。あの頃の俺は、生きてるってことをこいつに懸けてたんだ。そいつを、嘘にしたくねえからだよ。

*1:スガシカオ『黄金の月』

流石に殴りはしませんよ-僕という自称非モテからのお返事-

僕の何気ない一言に、かの高名なid:p_shirokuma先生からシロクマの屑籠(汎適所属) -問いかけをいただきました。

ちゃんとした答えになっているかどうかはわかりませんが、自分なりの答えを以下に並べてみたいと思います。

その前に、前回のエントリについて

「結局非モテってどうなりたいんですか?モテたいんですよね?」

これ全体を疑問文としてください。モテない人間全てが恋愛を求めているかのような思い込んでいる人が多く、憤りを感じているだけです。

非モテを自称する人達が、マジョリティの価値観に迎合しそのなかで適応を向上させようとする、いわゆる『脱オタ』を採用しないとすれば、id:yugyuさんが視た“上下関係”を直視し、上からの目線だの下からの目線だのという事に拘る事は、個人の適応を維持するうえで利口な戦略では無いと思う。むしろ、苦痛を長引かせるだけの、非生産的な選択肢ではないか?だからこそ、私はマジョリティの価値観を崇め奉るような、もっと言えば、マジョリティの価値観に上下関係を見出して歯軋りするような戦略を、勧めない。

さて、マジョリティの価値観を崇め奉るような感覚はいまだに抱いたことはありません。しかし、マジョリティの価値観に比べて、僕の依拠している価値観は力がありません。そういう意味での上下関係は常日頃から感じています。僕の価値観に力がないからといって安直に力のあるマジョリティの価値観に乗っかろうとすることはできません。

マジョリティの価値観を受け入れることは、僕の信奉する価値観への裏切りです。それと同時にマジョリティの価値観をまったく無視することはただの逃げです。そのどちらを選んだとしても、それはもう「僕」ではありません。先生が「諸々の恐怖に立ち向かう為の手札が自分には無い」ことを恐れるように僕は「自分が自分でなくなる」ことを強く恐れているのです。

よもや、 ガタガタ言わずに強くなるか「僕は全部駄目です」と諦めるかすれば?の困った相談相手さんのように、脱オタに走るわけでもなく、脱オタにリソースを投下するわけでもなく、でも女の子に自分を丸投げしたいとか言いだすわけではありますまいな。そんな無茶な要求が通らないことを理由に通りすがりのカップルをバットで殴りたいとか思っているなら、そんな正当化はあんまりだ。『喪男道』の覚悟さんとまるで変わらない。

彼らほど品のないことはできません。といいますか、おなご様やカップルなんてどうでもいいのです。以前のエントリなどでもそうですが、先生も非モテに対して「モテたいんだろ」的な思い込みをしていらっしゃるようですが、どうでしょう。性的な欲求などサンマ富士山があればどうにでもなるのです。

それよりも、モテやカップルが幅を利かせるために乗っかっているルール、もっと言ってしまえば僕という非モテを侮蔑するために使っている価値観はどうにかならんものかと夢想しています。が、先生は

「マジョリティの価値観を変えれば良い」とか「マジョリティの価値観がいけないんだから、変更すべきだ」という議論は、個人の適応を論じるうえで空想的なものとして私は退けるので、そのつもりで。

と仰いますので、個人的な適応について考えてみます。

先生が仰るような個人的な適応の手段
1.その中で這い上がる(脱オタ)
2.価値観から距離をとる(オタ道、など)
3.だめ人間コンテストに優越感を見出す(劣等感ゲーム)

僕にはこれらの手段を選ぶことはできません。僕はこれらを選んでしまったとしたら、もはや自分ではなくなってしまった自分によって潰されていくことでしょう。

僕は以前に非モテの戦は負け戦 −非モテは何を求めるのか−というエントリを書きました。

じゃあ、本当に何を求めているのか。それは一心不乱の殴り合いと相手に蹂躙されることだ。非モテがいくら殴っても効果はなく、そしてモテ・非非モテに殴られ続ける。分の悪い殴り合いの中での殺伐とした空気、悲壮感、絶望感、寂寥感。そして、そこから得られる強烈な自己愛とヒロイズム、狂気。これこそが非モテを満たすものだ。狂気のような恋愛感情など必要ない。

僕という非モテが僕のまま生きていくには、これしかありません。いみじくも先生がいう「苦痛を長引かせるだけの、非生産的な選択肢」です。しんどさがなければ、自分を満たすための「自己愛とヒロイズム、狂気」が得られないのです。本来であれば、そこにはイケメンもモテもおなご様もカップルもセックスも何もありません。しかし、非モテを名乗る以上はそれらが祀り上げる価値観に向かって勝負を挑まなければいけません。

【ちなみに、マジョリティのヒエラルキーは破壊不能です。】

知っています。夢はかなわないから夢なのです。だからってそこから逃げの手なんて打てないんですよ。負け戦だとわかっていながらもあがかないといけないのですよ。それしか自分を納得させる手段はありません。僕の適応の方法は「生きにくい娑婆社会に抗いながら、生きにくいまま生きていく」だけです。

先生の問いかけ

脱オタするか、モテだの異性だのを諦めるかすればいいじゃないの?」

に対しては、「脱オタは逃げの所業、はなからモテだの異性だのどうでもいい。けどそいつらの乗ってるビールケースの破壊には挑まなければならない」でしょうか。

合理的?生産性?そんなものが見えるならはてな非モテなんてやっていませんよ。

これで答えになっているかどうかはちょっとわかりません。しかし、自分に正直に答えてみました。
もし「これじゃ答えとして足らん」と思われるようでしたら、またお問い合わせください。(先生が面倒でなければですが)

男女間に友情は存在するのか

永続的には存在しないが、ある1つの期間を抜き出してみると「ビルコレさん、新色のニンテンドーDS Lite欲しい!(友情といえたかもしれない)」ということはあるかもしれないと思ったりするが、良くわかんない。

集団間の仲間意識を個人に適用している場合はどうか。うーん。

アニマルキミキス

 東雲太郎だけど最初なかなか気付かなかった。同人や成年漫画に比べて、ずいぶんとはっきりした線にしているのでかなり印象が違う。普段のタッチの方が好きだけど、読みやすいのはこっちだな。成年誌の方だと汁気が多いことと相まって「これいまどういう構図?」と分からなくなることもある。しかし、登場してくるヒロインの誰かはきっと生えているに違いない。

知っているからといってヤレるわけじゃないんだぜ

 つい最近ライブに行った。何かしらのライブに行くたびに、モッシュやコールやる人たちをみると感心する。(これをオタ芸に変えてもらってもかまわない)

 ライブに行くようになってしばらくは、自分も声を出したり周りと一緒に飛び跳ねたりしていた。しかしあるとき、会場の後ろの方で軽く体揺らしたり、頭振ったりしているのもすごく楽しい、動かない分疲れないと気付いた。

 しかし、これを音楽好きの友人たちに話すといつも怒られる。どうも「ライブでは盛り上がらんといかん」みたいな規範があるようだ。確かに、僕も最初はそのような規範があるような気がして騒いでいた。

 ライブに限らずいろんなところで規範というか、その時々のルールみたいなものがある。セオリーも含まれるかもしれない。例えば、バーの中では居酒屋にいるように騒がないとか、モテたければ多くのおなご様と話せとかね。非モテとか非コミュはそのルールをしらない。もしくはそれに乗っかれない人だと感じている。

 社会の中で使われているルールとかセオリーって、基本的に勝者や強者(これらの言葉を使いたくないけど)、社会的にうまくやれている人が作っていると思う。それに従ってうまくやれた人が、ルールやセオリーの価値を再生産している。そうなると、ルールに従って社会の中で生きていけるかみたいなゲームみたいだ。一般化された他者をいかに演じるか。

 「キモい」と思う境界もおそらくは、(社会的弱者からみた)「強者の価値観」だったりするんじゃないかなぁ。

 ルールを知らない場合なら、知ってから自分がどうするか選択すればよい。しかし、ルールを知った上でそれに従えないと決めた場合、自分にしか適用されない俺ルールを構築するのだが、こうなるとゲームへの復帰は困難。ゲームに復帰するには俺ルールの破壊、強者が作ったルールの受け入れの必要がある。すなわち自分を裏切らないといけない。

(余談だけど、脱オタした人がしばしば天馬さんいうところの「説教坊」になってしまうのは、自分を裏切ったことの正当性を保つにはオタクをたたき続けることしかないからかもしれない)

 すべてを受け入れてゲームに参加する。それが「大人」になることかもしれない。が、しかし……

 とルサンチ全開だねこれは。

同人活動の健全さへの疑問

話題になってる?これら
お客様は家畜ですと言わんばかりだと思った夏コミ3日目。
BLや801の方が(二次創作として)健全だというその根拠とか。
男性向け創作と女性向け創作に対するスタイルのあれこれ
コミケ男性向女性向まとめ

■男オタク(買い専門)のコミュニケーション

「どうして男性参加者って目が死んでるの?」

 こんな事を知り合いの腐女子に聞かれた。

 彼女が言うのには、会場での女性参加者は萌えトークしてたり絵を描いていたりと楽しそうなのに、男性参加者は黙々と物を買っていたりただ並んでいたりと楽しそうに見えないという事。

これは一般参加者のことなのか、サークル参加者のことなのか分からないけど、仮に一般参加者の話として普通会場で絵なんか描かないでしょ。絵が描けるようなスペースも時間もない。よく開場後の会場で座り込みしている人をみるけど、そうしているおなご様たちって萌えトークしてたり絵を描いていたりするの?それはビックサイトじゃなくてもできるんじゃねぇの?。

あと、男性向けの待ち列の中でも萌えトークしている人たちはよくいる。何十分と待つ間暇なので、知らない人でも話し込んだりしていることもある。僕はあの会場にいる人たちのテンションについていけないので、ずっと黙っているけど。

男性向二次創作を取り巻く連中は何であんな必死な連中が多いんだという話。女性向二次創作は割とゆったりしているのに。

単純に人数的な競争率の違い。外に出ればおなご様だってそらもう必死になられていますよ。走るカートに足を引かれたことは数知れず。2日目なんて劇的に人がいないんだから、壁以外の場所はそらゆったりしてるでしょうね。あと、青年誌あたりのちょいマイナーなジャンルを扱っているスペースとかは実にゆったり見てまわれる。

僕の頭の中にあるのは大同人物語。あの中でオタクが精鋭中の最精鋭、鋼鉄の意志の古参兵たちと扱われる場面がある。僕の中でコミケは10数年前から変わらず「戦場」のイメージだ。特に徒党を組んで欲しい本を手分けして買っているような人たちをみるとそう思う。兵隊達が戦場で話し込むだろうか。

彼らの綿密なコミュニケーションは、戦が始まる前に終わって、戦が終わってまた始まる。そこでのコミュニケーションだって、買出しの話から「最近、どうっすか?」みたいな話、「○○(作品名)見てます?あれは(以下作品論から製作現場の話など多岐に渡る)ですよねー」なんて話もされる。というか、開場前の待ち列でそういった部隊に囲まれるとずーっと話をされて寝られない。

■細々とした即売会に行く人数から多いから健全なのか?

これもあんまり関係ない。地方のイベントに若年層のおなごさまが多いのは単純に「東京まで泊り込みで行くことを親にゆるされていないし、お金もあんまりないから」もし、もっと地方のおなご様が東京に気軽に出てくることができたら、地方の即売会も閑古鳥が鳴くでしょう。

地方の小さい即売会って僕から見たら不健全ですよ。いついっても1枚絵を集めたものとか、起承転結のないポエムが書き連ねられてる漫画とか便箋ばっかりだもん。こっちはパロディでもエロでも創作でも漫画探しに行ってるのに、そこにあるのはポエムと便箋。

■こだわりがあった方が健全なのか

実のところ、「〜×〜がお嫌いな方」「〜×〜以外は認めない」のようなこだわりって二次創作の健全さってあまり関係がないような気がする。二次創作の健全さって要するにどれだけキャラや作品に愛を込められるかという話だと思う。

同人誌を作ることはとても労力がかかる。星の数ほどある作品から選んで、わざわざ本を作るくらいなんだから、作り手にはすごく愛情があると思っているんだけどどうか。

それから作り手を何人か見てきて、それぞれキャラのことを深く考えていることが多いように感じる。「このギャグはこのキャラがいうから面白い」とか「このキャラとこのキャラが絡むなら、このシチュエーションがエロくて絶対に良い」なんてこだわりを持ち合わせている。エロだろうがフェチだろうが、キャラや作品への愛って変わらないと思うんだけど。

「エロが欲しいなら二次創作じゃなくていいじゃん!」という話になるのかなぁ。

「このキャラのエロ絵が見たい!」「今エロ描くならこのキャラ以外考えられない!」が強い動機になっているなら、vr6ubqgさんの中でOKが出るのだろうか?どうも各エントリから、「エロとそれに群がるオタうざい」オーラが物凄く出ているように見受けられる。

僕の場合は、ちゃんと起承転結がある(起結でも可)漫画ならジャンルが何であれ、大抵満足できてしまうのでかなり不健全なオタクだが。